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ルート495 [旅]

和白のホテルから北九州へ向け走り出す為にナビに北九州の目的地を入れると国道3号まで出よというメッセージが流れる。う~む、直ぐそこに495号と表示される道は北九州まで繋がっているよなぁ。ナビに逆らってまぁ無理矢理(!)国道495号を行ってみるかで出発しました。

しばらく走っていたら、あれ~?見覚えがある、どこか懐かしい道だなぁ、です。その内に道の両側の店の様子から、これは少し古い道かも知れないぞ、と思いました。調べますと旧国道3号線でした。やはりなぁ見覚えがあります。

50年前も前の話です。その頃、小学校3年生まで居た北九州の門司の小学校の友達に会いたいと、アルバイトに使っていたヤマハメイトという原付バイクに乗って、北九州へ向け走り出したあの道だったのですね。

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海の中道 [旅]

50年前は志賀島へ行くとなると、(旧の)3号線を走って、箱崎、名島、香椎を経て和白で左折してました。小排気量のバイクだと和白までで少しくたびれたなぁだったと記憶してます。これが19才くらいの時。24、5才くらいの時は車での、まぁ所謂デートコースというのかな、志賀島を一回りするのが好きでしたね。。 10代の頃は和白からの途中の道沿いの雁ノ巣にはまだブレディ基地という米軍基地があったのではなかったかな・・少し記憶は曖昧ですが。道路沿いの金網の向こうは米軍人や米軍軍属やその家族が専用ゴルフコースでゴルフをしておりました。戦勝国と敗戦国の境は金網だったのです。金網の向こうはまぶしい別世界でした。

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十勝三俣の珈琲ハウス(北海道) [旅]

mikuni_p.jpg三国峠からの眺めは、原始の北海道はこうであったのではないかと思える景色です。








ある年は、三国峠から糠平温泉方面を目指して南下をしていると左側に、またある年は、十勝平野の鹿追から入って行く然別湖経由(然別湖から先が通行止めになっている可能性もある道)で一部で細くなる道を頑張って走って、糠平温泉付近で広い道に合流して、ひたすら三国峠を目指していますと右側に、


mitsumata.jpg突然「営業中」の看板を掲げたログハウスが目に入ります。お店があるのは三俣という地名だそうです。最初にお店に入った時は数時間お邪魔しました。その時は偶然ゆっくり出来たようです。シホンケーキと紅茶が美味しかったのを覚えています。店内で売っている鹿の落ち角で作った小さな工芸品(アイヌの方の作品ではないそうです)が好きで、毎年数個づつ買い求めておりました。


さて、この三俣という場所は・・

私が今住むのは関西エリアです。毎週土曜日の夜、サンテレビでは北海道の放送局が制作した北海道の旅番組を2~4年遅れで放映してます。2017年に入ってのある週の放送で、このログハウス喫茶店がある辺りは旧士幌線の終着駅の十勝三俣の駅があった場所だと番組の中で紹介されておりました。今頃ですが、ええっ?そうなの~!(まっ、廃線の旅も、時々は”忘れ”ます。)

検索しますと1978年頃まで操車も出来そうな立派な駅があったようです。当時の航空写真も出て来ます。今も気象庁のアメダスでの観測は行われていてデータが出て来ます。

1978年・・私28才かぁ。頑張ればバイクで走って行けたかも知れません。でも、まぁ、あの頃は仕事が厳しい時代でしたので、北海道へバイクで行くなんて余裕はありませんでした。


抜海という駅(北海道) [旅]

bakkai.jpg人生に悩んでいる人がよく訪ねる駅だそうです。そんな内容の番組をテレビで放映してました。ある人はプラットホームにじっと座って・・・ある人は待合室で天井を見ながら・・考え込んでおりました。う~む、私とて悩みがない訳ではありません。番組を見ながら一度は行ってみようと思いました。



ある時、行ってみました。が、う~ん、プラットホームも駅舎も私には何も語りかけてくれませんでした。う~む。

流氷が見たくて往復した冬のフェリーの復路が事前案内では定刻だった運航が大幅に到着が遅れてしまい、歩きの客(業界用語で車無しの客は”人力車”と言うらしいです。)の私は着いた先では交通手段がないとのことで、フェリー会社ではタクシーで大阪の難波まで送ってくれることになり、もう一人、歩きの乗客がいるとのことでした。

フェリー到着後彼と一緒になりました。2人で乗ったタクシー。約2時間の道中で話も少ししました。札幌の若い方で、年齢は28才で転職を2回して、今は就活中だけど、これから四国の八十八カ所を巡る旅に行く積もりであること等を語ってくれました。「そうですかぁ。僕はね、この年まで八十八カ所を巡ろうと思った事がないのですね~。やっぱ、いつか行かんといかんのやろかぁ・・僕はどこかがおかしいのかなぁ・・」と呟いた私・・。彼とは公共交通機関は全て止まった未明の難波の駅でタクシーを降ろされ、そこで別れました。

私、これまで四国の八十八カ所もお伊勢さんにも金比羅さんにも、少し違うけど所謂「城巡り」にも、一度も行こうと思った事がなく67才の今まできております・・変人?凡人の域にさえもまだ達していない?のかも知れません。抜海駅の事は、今も時々思い出しております。


「北浜」駅(北海道) [旅]

世界の鉄道の旅をされている関口知宏さんが、少し前の日本の鉄道(JR)を乗り尽くす旅の番組の時にとても印象に残った駅でした。網走近くの釧網本線の駅です。関口さんが降り立った北浜駅。駅舎の食堂で、美味しそうなソースがかかったハンバーグの定食を食べた関口さんでした。座ったのは一番奥の窓際の席でした。

「いつかあそこに座ってあのハンバーグの定食を食べるバイ」

と心に決めた訳ですが、一番奥の窓際に席に座ってハンバーグ定食を食べるのは何度か実現出来ましたが(ちょっと気難しく見える=失礼)ご主人には未だにお会いできておりません。会って、何かを話す訳でもないのですが・・。

kitahama_st.jpg2015年、もうこちら方面にはこれから先は来ないかもなぁとの気持ちで北浜駅に寄りますと、列車が入ってきました・・ほぉ。これまで何度も寄っていましたが、列車を見たことはありませんでした。これはまた来いよ、なのかな・・。


「間道」という本 [旅]

kandou_1.jpg(調べますと)2006年の出版です。当時、週刊誌の新刊書評で見て買いましたから刊行されて直ぐに買い求めたと思います。この本は以後の私の北海道の旅のバイブル的な本になりました。「港町は土地柄が優しいらしい」と読み、私も出来れば港町で泊まりたいと思うようになりました。(あの頃はまだ元気で車中泊が出来てました。やはり63才くらいから車中泊が身体に厳しくなって、前日に翌日の安い宿を検索して予約するようになった時は少し寂しかったですね。)
厳しい間道の世界の話、北海道の町の祭りの開催日に沿って続く著者の旅では北海道の地名が次々に出てきます。津別、喜茂別の話。それが頭の片隅に残っていたのでしょうね、津別と喜茂別はよく通りました。

白糠から釧路まで著者の飴細工の店を追いかけてきた幼い姉弟の話もとても記憶に残った本でした。

kandou_2.jpg2008年の夏、私は羽幌の道の駅横のホテルの日帰り温泉に入っておりました。どうやらその日は羽幌の夏祭りのようでした。湯船でふと「あれ?!著者の方は夏祭りが開かれている町から町を移動してるのだっけ・・ひょっとして!」と急いでお風呂を上がって夏祭りに行きますと、飴細工の店が出てました・・ひょっとして?!



shiba_1.jpgひっきりなしの客の注文を受けての飴細工の制作作業が続いておりました。少しの間、客が途切れた時に「「間道」の著者の方ですか?」と訊きましたら、「そうです」でした。(やったー。)少しだけ話して、一緒の写真をお客さんに撮ってもらい(!)、柴犬の飴を作っていただきました。(その飴は9年経った今も冷凍庫にあります。少し変形はしておりますが。)





この時は北海道へは本を持参してなく、サインはいただけなかったので、次の年からは、車のグローブボックス?に入れておりましたが、私の北海道の好みの季節(雪が降る少し前)と著者の方の移動の季節が微妙ズレたようで、以後はお会いできておりません。




「飛行場前」という駅 [旅]

2012_hiko.jpg廃線になった北海道の鉄道を特集した本を買って北海道の廃線の跡をたどる旅行もしてました。ある日、旧天北線の駅を眺めていたら、「飛行場前」という名の駅を見つけました。飛行場前?・・以前、飛行場があったのか?・・。少しだけ調べますと浅茅野飛行場とも言った旧帝国陸軍の飛行場だったらしいことなどがわかりました。

稚内からオホーツク海に沿って南下してきますと、浅茅野という地名のところがあります。その近辺らしい、だけの情報だけで車で旅行をした時に探してみました。最初は国道から海側に入り探しましたがわかりませんでした。牧場が多いので人影もなく訊けずに諦めました。

国道を渡って内陸側に入って探していますと、建築の重機などが置かれた建設会社で作業中の人影を発見しましたので、車を止めて訊ねますと、今はプラットホームだけが残っていること、教えて下さった社長とおぼしき方(年齢は私と一緒くらい)が高校生の頃に駅舎は火事で焼失したとの事(そうすると40数年前か)、そこから駅跡への道を教えてもらいました。そして途中の道端にあるコンクリートの塊は、旧陸軍病院の跡って聞いてるよ、とも。教えていただいた通りに走り、着いてみると、ホームの跡が残ってました。線路跡は今は自転車道になってます。2008年のことです。左上はその時の写真です。

hiko_hos.jpgこのコンクリート片が陸軍病院の跡・・なのでしょうか・・。








2015_hiko.jpgそれから毎年寄ってます。左は2015年のプラットホーム跡ですが、少しづつ朽ち果てていってます。






wikipediaなどで調べますと、戦後に米軍が撮った航空写真などが出て来ます。建設時には強制労働の話もあったようです。