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アイ・ソー・ザ・ライト(映画) [映画・音楽]


先日、WO*OWで放映されたのを録画で観ました。ハンク・ウイリアムスのデビューから亡くなるまでを描いた映画です。私、カントリー・ミュージックは好きですけど、詳しくはありません。そんな私の理解でも彼はカントリー・ミュージック史の中でも巨人の1人だと思います。私が物心ついた頃に、ハンク・ウイリアムスの名はどこかで耳にはしていた記憶があります。何と言うのでしょうか、ヨーデルの様なあの歌い方もラジオから流れていたのを覚えてます。幼心には「きっと、この人、おじさんなのだろうなぁ」と思ってました。

今回この映画で初めて知ったのは、ハンク・ウイリアムスは1952年に29才という若さで亡くなったことでした。つまり私が2才の時に、物心がつく前に、既に亡くなっていたということになります。

23才でデビューし、6年間で36曲の(大)ヒット曲を生み、1100万枚のレコードを売り上げたとの映画の最後の方にナレーションがありました。

29才かぁ・・(恐縮ですが)徒弟制度の世界に身を置いていた私歴史で言うとあの頃かぁ・・29才はまだまだ「坊や」扱いの頃でした。


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ザ・パシフィック(HBO)・・台詞 [映画・音楽]

アメリカ軍が主の連合軍と日本軍の戦争であった太平洋戦争をアメリカ軍(海兵隊)側から描いた(テレビ?)映画です。勝った筈のアメリカ軍の兵士達も精神的にもダメージを負った・・戦争の悲惨さを描いたHBO製作のフィルムです。HBOのフィルムでは他にもバンド・オブ・ブラザーズがありました。私はWO*OWにて観ました。

この映画は2つか3つの従軍小説を原作にして作られているようです。その1つの小説はロバート・レッキー著「Helmet for my pillow」ですが、彼が戦闘の模様などを日記風に書いた宛名は育った町の近所の片想いの女性(ベラ・ケラーさん)です。

帰郷して、意を決して彼女を夕食に誘い、レストランでの会話です。その台詞がどうも難しいのです。米語ネイティブになりたーい!!と思ったのが以下の台詞です。ベラ・ケラーさんに従軍中に書いた私宛の手紙をどうして投函しなかったのかと問われた時に、彼は多分こう言っているのかな?ですが・・・何度聞いても何かを聞き落としているようで・・わからんです。(彼らは翌年=1946年に結婚します。)

But....I did't think to make it the matter to save my life....


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「コンタクト」(映画) [映画・音楽]

1997年公開だったようです。主演はジョディ・フォスターです。監督はロバート・ゼメキスです。好きな映画の一つだったので、保存版の録画はあります。(放映される度に録っていたのではないかな。)

でも、何故、ジョディ・フォスターは(割と地味な?=けれども重要な)天文学者の役で出たのだろうか、何故、ロバート・ゼメキス監督だったのだろうか、の疑問はずっとありました。既に2度のアカデミー主演女優賞を獲得していたので大女優でもあった筈ですから、オファーがあれば役を演じるのかも知れませんが、普通は映画を選ぶし選べた筈です。

ブラッド・ピットは「セブン・イヤーズ・イン・チベット」以来、中国に入出国出来ないようです。マット・デイモンの「グリーン・ゾーン」、「プロミス・ランド」のように、映画だとは言え、そこまで表現して大丈夫なのか?!(米国は)随分と懐が深い国だな、と思う映画は、ブラッド・ピットだから、マット・デイモンだから、はわかるのですけどね。あっ、ジョージ・クルーニーもね(!)

BSに、(私は普段は余り見ない)「コズミック フロント☆NEXT」という番組があります。先日「宇宙人からのメッセージ!?謎の電波に迫る」という番組が放映されました。宇宙人と書かれた番組は(出来る限りは)見ます。私は、UFOは当然飛んでいるさ、と考える人です。東京から米国西海岸まで飛行機で8時間なんて遅すぎる、20分で着かなければ、それは(誇れる)文明とは言えないのではないかと考えている人です。(リニアでは品川<->甲府が15分だとか。これは少し誇れる文明だと思います。陸海空の交通の手段では基準は15分~20分ですね。バイクと車とフェリーは別ですけど・・。)

脱線しますね。考え方にも一貫性もありません、ね。


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飢餓海峡(映画・シーン) [映画・音楽]

この映画は1965年の公開ですから、封切られて間もなくの、確か15才(中三)の時に父親に連れられて2人で見に行きました。台詞ではありません。場面です。


陽炎の中を1人の男が歩いてきます。伴淳三郎さん演じる刑事です。脱いだ上着を手にしてハンカチで汗を拭きながらです。遠くからこちらへ歩いてくる場面です。


三國連太郎さん演じる主人公が逃亡途中に青森の旅館での左幸子さん演じる娼婦とのシーンでは、中三の私は「僕はこのシーンを見てよかっちゃろか」と気にして周りの大人を見回しましたら、大人のおじさん達の目はスクリーンに釘付けでした。それほど左幸子さんの迫真の演技だったように覚えてます。(左幸子さんの「砂の女」も父親に連れられて中学生の頃行った覚えがあります。こちらの映画は、映画館を出た時に「なんか疲れたなぁ」と思ったのを覚えてます。内容はほとんど覚えていません。R15とかR12などはなかった時代です。18才未満禁止=18禁、はあったと思います。昔のとうちゃんは無敵でしたね。おう、俺が子供を連れてきたとバイ、文句あるや?みたいな。)

映画を観てから5年か6年が経った私が20才の頃(1970年頃かな)、羽田から新橋へのモノレールの4人掛対面シートの窓際に(今、思い出すとお洒落なカシミヤコートを着て・・でも、その頃はカシミヤなんて知りもしませんからお洒落なコートを着てらっしゃると思いました。)伴淳三郎さんと思しき(失礼ながら、ほくろの位置などで)人が座りました。隣にはマネージャーか付き人かの若い人です。私は一人で乗っていて斜め前の通路側でした。

「あっ、あの陽炎の中からゆら~っと登場した伴淳三郎さんだぁ」と少し憧れの目でお顔をこっそり見た積もりだったのですが、伴淳三郎さんは2度くらい、あの黒縁メガネを通してぎろりと私を見ました。伴淳三郎さんの目には私はどう映ったのか・・単に目に入っただけだったのでしょうが、私には忘れられない実シーンの一つです。


(余談・・録っていた映画を観て場面を確認しようとしましたが、上記のシーンが出て来ません・・183分バージョンです。確かにあのシーンは50年経った今も覚えているのですが・・。)



幸福の黄色いハンカチ(映画・台詞) [映画・音楽]

後半の、夜遅くに旅館に入り3人で話すシーンがあります。健さん演じるゆうさんが自分で自分をなじるシーンでは


「どうして、おれ、こう、こんな
やくざな性分にうまれついたん(の)かなぁ
死ぬまで直らんのかなぁ俺の一生・・」
映画「幸福の黄色いハンカチ」より)


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私は一応、日本のネイティブですから、邦画だと細部を聞き分けられる(筈な)ので、著作権との絡みがあるとして、映画から台詞を耳で聴いてここに抜き書きするのがセーフなのかアウトなのかは不明です。アウトだよのご指摘があれば引っ込めます。(洋画の場合の”台詞の引用”は、ほとんどの場合、間違っていると思いますので問題はないかと。
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一字一句は自信がありませんが、少し九州の言い回しが入っている筈です。健さんは「川筋」の血を受け継いでいる人です。(私の家内にも川筋の血が(濃く)入っております。すげぇ怖いです!一言も発せずに居合い抜きみたいに斬られます。もう10数回斬り捨ておかれ?ました。)台本通りに喋っても、少し九州の言葉の使い方になるのではないかなと思います。

私も同じような一人台詞を吐いた事が何度か=多々!、あります。「これは”血”やろか・・なんでこうなるんか・・きっとオヤジやろ・・遺伝やろ」(98%はあの話です・・?!)と、遺伝のせいにして逃げておりました.。でも、いま振り返ると、オヤジさんが悪いのではなく、単に私が悪いだけだったのに、ですね。

この映画は好きでしたので、初期の北海道の旅では、夕張、新得にもよく寄ってました。新得警察署の渥美清さん演じる係長の、自分のこの先の警察官人生を「まぁ、おれも、こんなもんじゃないのぉ」という台詞で語るシーンも好きです。ロケの警察署はどこにあったのだろうかと、想像しながら今の新得警察署近くで車を駐めて、休憩した覚えがあります。新得には美味しい蕎麦屋さんもありますし。(何でも、JR新得駅の駅蕎麦は本格的な蕎麦らしい、です。しまった!行けば良かった、です。)

最後のシーンの夕張のロケ地にも一度だけ行きましたが、遠目に見て、う~ん・・少し私のイメージと違ったので、料金も払わずに引き返しました。あっ、釧路湿原の官営?展望台も入場券売り場で引き返しました・・心情は同じでした。

翼よあれがパリの灯だ(映画・台詞) [映画・音楽]

台詞シリーズです。

「It could be.... Dingle bay」

長時間の飛行の後に出会った操業中の漁船、その周りを旋回しながら「which way to Ireland」と飛行機から叫んだ後、また水平飛行に戻って主人公はぼーっと前方を見ていた時に、視界に入ってきた小島と陸地。島との関係位置を地図で確認しながら、スペインか?でも、飛行時間は予想していた時間にはまだ至ってない、しかし・・これはどう見てもアイルランドのディングル湾だと確信するシーンでの台詞です。

現在のカーナビは正確ですが、初めての行く目的地近辺に着いた時に頭の中で想像していた景色と実際の景色が多少違うな・・でも、道の左側にあって・・向いはナニナニだし・・ここで間違いないな、の時に、この台詞を使わせていただいております。「イットクッドビー・・日田のリンガーハット!」(あそこは道路状況が難しい=どう入ればいいのだろぉ?、なところにありました。)


「世界最速のインディアン」(台詞) [映画・音楽]

ネットには、この映画の名言集(人生訓話的なチョイスで?)も出ているくらいです。主演がアンソニー・ホプキンスです。舞台俳優出身の名優ですから台詞の言い回しには定評があります。。

個人的な支援で泊めてもらっているモーテルの一室でタイヤの加工(ノーマルタイヤを手で削ってスリックタイヤに)をしながら支援してくれる人に何とかタイムトライアルのコースだけでも走れないかコース役員を説得して欲しいと願う場面。支援者は、今日の所は説得は無理だった、(望みは余りないけど)明日また説得してみるけどと言いながら、部屋を去ろうとする彼に、主人公は

「人は、老人は部屋の隅で静かに死を(人生の終わりを)待てと言う。バート・モンローはまだ(人生を)終える準備すらしてない(=冗談じゃない=私の解釈)と彼らに言ってやりたい。」

というような事を言います。特例措置もあり、いよいよ正式な記録走行に走り出した時、その後ろ姿を見ながら支援者が「彼は、ノーブレーキ、ノーパラシュートで走る」というような台詞があったと思います。

私の場合は「ノーTwitter、ノーFaceBookでネット時代を生きてみる」に置き換えてます。(まぁ友達がいかに居ないかの典型例なのですが。)

そう、前半のシーンで、「暑い日には熱い紅茶を飲むのに限る」という台詞もありました。私、暑い夏の日に真似してみましたけど、う~ん、暑さは倍増しました・・まだ私は人生修行が足りてない、のでしょうね。


バック・ツー・ザ・フューチャー(映画) [映画・音楽]

30才代の頃から10数回以上かな、観ております。あれから30年。その間にアナログVHSビデオ->デジタルHDD・・時代と共に変わっていった記録媒体での録画を、ですね。スパイ映画などは30年経ちますと、少し色あせてしまいます。録画した映画が「1984年アメリカ」なんて最初に出ますと、うーん、どうしようか・・観るかどうか・・迷います。(脱線しますが、あれ、なんで、でしょうね。ローマの休日、とか、評決などは、固定電話のシーンがすんなり入ってきます。その辺りが名作なのでしょうかねぇ。)

このバック・ツー・ザ・フューチャーは30年経っても色あせない映画です。何度見てもわからないところが数多くあると思います。以前は、その箇所を数えてましたけが、まただんだんわからなくなってきます。よく練られた脚本だったのでしょうね。監督はロバート・ゼメキス監督です。(スピルバーグ総監督)ゼメキス監督の作品では「キャスト・アウェイ」も、大好きです。(ヘレン・ハントのファンということもありますが。)

で、このバック・ツー・ザ・フューチャーでの台詞は・・多分、

(The) Bruise, Bruise in your head... I know how that happened...

と言ってるというところです。偶発的にタイムマシーンで1985年から1955年への移動してしまい、発明者のドク(博士)の若い時の自宅に会いに行きますが、なかなかタイムマシンで来たことを信用してもらえない。扉を閉められて追い返されそうになった時にドアをもう一度開けさせたきっかけになった時の台詞がこれです。何故、1985年の実験時に目的年を1955年にしたのかを博士が語った訳を主人公は覚えていた訳です。でないと、主人公は1985年に帰れなかった筈・・だと。

そう、世の中の目の前で起きていることや聞いた事は、覚えておくと、やがて自分の身を救う事になるかも知れません。最近は電車とバスには乗らないのでそこでの光景はわかりませんが、たまに行く病院(時々の外出は病院しかありません・・情けないです)で見ていますと、料金を払うところ、総合待合室みたいなところでは、老人も含めてかなりの方がスマートホンを操作してます。

電車をよく利用している家人によれば、乗客のほとんどの方がやはりスマートホンを操作したりイヤホンを接続して音も聞きながらの操作をしているらしいです。家人は相変わらずのガラ携ですから、操作することもなく「皆さんは、何をしているのだろう」といつも思っているそうです。

目を動かして、耳をすまして(それほど、ではなくても)いれば、それこそ小説が書けそうな光景がいくつもあります。失礼のない程度に人間観察をするのも悪くはありません。まして他人が言ったことを、少しの時間でも頭の中にとどめておくのも身を助けるかも知れない、ということなのかも知れません。だからスマートホン操作の時も、少しの間、顔を上げて周りを観て下さった方が・・。

そうそう、マイケル・J・フォックスさんもお元気になられたようで、2017年のアカデミー賞のプレゼンターとして登場されました。賞の数日前はジョディ・フォスターさんなどと一緒に、大統領令に対して意見を言われていたようです。そうジョディ・フォスターさんの「コンタクト」(これも好きな映画です)もゼメキス監督作品ですね。


ダイヤモンド(ズ)・アンド・ラスト(歌) [映画・音楽]

定年になって、これはいいぞと、2番目のお友達になったのは「ネット」です。(1番目のお友達はTVのワイドショー。それまで見たことなかったから。1年で飽きましたけど。)今や何から何まで調べられます。BSがアナログ放送の頃、ボブ・ディラン(デビュー?)30周年記念コンサートを第一部と第二に分けて放送したのですが、それを録画したVHSビデオは長らく私のお宝ビデオでした。今も持ってますが・・再生できる機器はもう家にはありません(!)CDは2枚組のものをアマ*ンで買って、時々、聴いております。映像もY*u Tubeにあったと思います。

そうそう、いまだに探し出せてないのが、(多分)ジョン・レノン追悼コンサートです。野外だったと思います。シンディ・ローパーが「ヘイ ブルドッグ」を歌ったのですが、とてもいかしてました。その時のバックバンドのドラマーが素晴らしかったのです。その映像はまだ探しだせてません。

脱線しました。それで、最近、Y*u Tubeで知ったのが、ジョーン・バエズの「Diamonds and Rust」です。何年前かな、少し前だったかな、WO*OWで観た映画「NO DIRECTION HOME BOB DYLAN」では、ボブ・ディランとジョーン・バエズは恋仲だったようです。ジョーン・バエズへのインタビューでは、彼女はすでに有名人で、ボブ・ディランと一緒に宿泊予定だったホテルのフロントがまだそれほど有名ではなかったボブ・ディランの容姿に難色を示した時、「何言っているの!私はジョーン・バエズよっ」と言ったエピソードを語ってました。その夜、ボブ・ディランは「When The Ship Comes In」を一気に書き上げたとか。(あれも好きな曲です。)

当時はボブ・ディランが歌っている時に彼女は飛び入りで入り高音部を付けたり(と言うのかな)献身的なサポートをしていたように思えます。1963年のワシントンでの公民権運動の大行進の時の演奏時などです。

ジョーン・バエズとボブ・ディランが恋仲だったのか・・・ああ、これで何となく不思議だった1960年代の、ひとくくりで書くとフォーク界の訳が解った気がしました。(今はもう2010年代、私はすでに60才をこえてましたが。)

この辺りの事は、いろいろ研究されている方は多いと思います。大部分を記憶で書いております私が間違いを書いていたら、すみません。

あの頃は外国から日本には情報が断片的にしか入ってこなかったので、仕方はなかったのでしょうが、評論家と称されていた人からも「ボブ・ディランとジョーン・バエズが恋仲」なんて聞かされもしなかったし、唯一の情報源だった深夜ラジオでも聞けなかったし、そんな記事が雑誌に出ていたのかどうか知りませんが、新聞などで読んだこともありませんでした。

あの頃って、ピーター・ポール・アンド・メアリーをPPMとか、略す事がお洒落です、みたいな評論しかなかったのではないかなぁ?今の映画評論の町山さんなんて、英語の言い回しとか微妙な人種問題の背景などを一緒に説明してくれますから、映画がすごくよくわかります。


この「Diamonds and Rust」は別れた(出て行った?こんな事を書いて良いのか?!)ボブ・ディランへのラブソングだと思ったのですけどね、どうなのだろうか・・。(My poetry was lousy you said ・・彼にとって彼女の存在は・・ちょい重たかったのかも・・。)歌詞の中に「midwestの電話ボックスから掛けてきた」とあります。このmidwestとは米国中西部のことだと思いますが、先日のテレビで現在の米国大統領の支持者が多い地域なのか、ニューヨークの進歩的そうな?高齢のご婦人から「midwestは教育程度が低いから・・」とコケにされて(!)おりましたが、小さな国(日本)から想像出来ない大きな国の地域の事情もあるのでしょうね。

日本語が流暢なアメリカ人の方から、津軽海峡冬景色の歌詞の中の、北へ向かう人が皆、無口なのは何故なのか、と訊かれた事があります。う~ん・・う~ん。想像で言い切ると北の人に申し訳ないしなぁ・・う~ん。彼は、さらに西へ向かう人々は饒舌なのか?とも。そりゃぁあなた、大阪はスペインやし~、博多はイタリアですバイ、とも言えず・・。日本のネイティブの私でも説明は難しかった、です。ああ、また脱線です。


ジョーン・バエズの75才の誕生日コンサート(2016年)?(これもY*u Tubeにあります。)で、歌詞の一部を、「50年前に買ってあげたカフス」と歌っているので、25才の時の事なのか・・30才代、50才代でも歌っていたのでしょうが、そこは何と歌ったのかなぁ。

そのコンサートには、インディゴ・ガールズとジュディ・コリンズとポール・サイモンもゲストで出て来て・・何となく「バエズはん、あんたよか人やったんやねー」と、私は呟きました。


レインメーカー(映画・台詞) [映画・音楽]

「11462 files・・ 9141 denied」

低所得者層向けの掛け捨て医療保険金の支払い請求を拒否されて、適切な治療も受けられずいる息子の為に訴訟を起こした母親の弁護人となったのはマット・デイモン演じる新人弁護士でした。裁判中にその息子は亡くなってしまいます。そして裁判の中で証人出廷した当該保険会社のCEOに尋ねたシーンで弁護士がカードに書いた数字を陪審員に見せながら確認した数字。ある年の、11462は保険支払い請求の件数、9141は支払いを拒否した件数です。実に約80%は支払い拒否です。

私が55才の頃、N生命が契約の更新を渋り(難癖?)ました。30年も何も言わず掛け金を払ってきた契約者の私に、血圧のデータを出せ、などでした。どうやら50才の時に検査入院をした時の入院費の一部を保険請求した事が彼らの更新基準のどこかに引っかかったのか?と思えました。こちらから「そんならやめてやらぁ」の言葉を待っているような感じでしたから、過去2年分の血圧のデータを提出して、これで駄目なら消費者センターへ話を持って行く積もりですと訪問女性社員に言うと、男性幹部社員があわてて飛んできました・・彼がkuromakuか・・まぁ彼も会社の方針を忠実に守っているだけなのだろうけどね・・・。

当時、家人がパート先でいろいろ聞いたところでは、少し年上だった2人の方は、ご主人が55才を過ぎた頃に、保険会社は違いましたが、やはりこちらから契約をやめるように仕向けてきたようです。2人とも保険会社の言葉にご主人が怒って契約をやめたとか。

映画の中で保険会社のマニュアルに「セクションU」という社内向けの項があって、そこには、請求には例外なく1度断る、など表に出せない事項が書いてある、とのシーンもありました。私の場合のN生命のNとはこの国の名前と一緒だったところです。最大手でした。そこでもこんな事がありました。契約は定年と同時にやめました。その時の電話の応対はそれはもうgood、でしたよ。私の話は100%ノン・フィクションです。


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